牛銀の歴史Story

牛銀の歴史

牛銀と松阪牛の物語

牛銀創業者の小林銀蔵は明治十三年(1880年)、松阪近郊の伊勢寺に農家の三男坊として生まれました。
成長した銀蔵は「日進月歩の世に田舎で百姓などしていてもつまらん。都会で商いを覚えたい」と単身上京。
文明開化以降、流行の兆しを見せていた牛肉に目をつけ、肉料理店「米久」の門を叩きます。

其の壱牛鍋と牛めし一銭五厘

数年間の修行で牛肉の扱いから調理法、店舗の運営まで学んだ銀蔵は、故郷松阪へ戻ると、本町通り(現在地のひと筋北)に精肉店「牛銀」の看板を掲げます。
明治三十五年、二十二歳のことでした。当時ブツ切りがあたり前だった地方で、部位ごとに分けて筋を引き、スライスする銀蔵の手際は"平切り"と評判を呼んだそうです。
精肉販売を軌道にのせた銀蔵は、やがて店先に"牛鍋と牛めし一銭五厘"の垂れ幕を吊し、牛肉料理の提供も始めました。これにより、文明開化の味が庶民にまで広まることとなったのです。

其の弐東京でも通用する牛を

銀蔵が東京で学んだのは商売だけではありません。
よい肉を見定める目を養うとともに、優良牛の育て方も身につけていたです。「東京でも通用する牛を」と農家に呼びかけて肥育法を伝授し、いい牛ができるとアッと驚く値で買い上げ、農家の意欲を高めました。
明治の終わり頃になると、牛肉は滋養のあるハイカラな御馳走として全国へ広まり、それに伴ってよりおいしい牛への要求が高まります。松阪でも初の牛肉品評会が開催されました。これが毎年晩秋に開かれ、牛肉日本一を決する「松阪牛肉共進会」のルーツです。
大正十二年、「牛銀」は県の推薦を受けて「近畿二府五県連合畜産共進会」に参加しました。このとき松阪牛は神戸牛や近江牛と激しく上位を競い合い、以降ブランド牛して名声を高めてゆきました。

其の参畜産博覧会で名誉賞に

東京で開かれた国内勧業博覧会で、こんな出来事ありました。松阪の農家が出展した牛を、業者が買い叩こうとしているのを知った銀蔵が烈火の如く怒り、「ワシが言い値で全部買う」と全て送り返そうとしたのです。
これにはさすがの東京商人も困り果て、非を詫びて取引が成立。松阪牛の面目を保った銀蔵は、農家から一目置かれる存在となりました。
やがて松阪は、良牛の産地として毎年七千頭を県外へ出荷するまでに。
昭和十年に東京芝浦で開かれた畜産博覧会では、ついに神戸牛、近江牛を破って名誉賞を獲得。ブランド牛として揺るぎない地位を築くに至ったのです。

牛銀の歴史